初の出会いです。こんなことまで配慮する人がいるとは, と驚きましたが, 吉村先生をご存知の方なら皆さん, いかにも先生らしい, と頷かれることでしょう。京阪電車黄檗駅から見えるその第1希望のアパートは, もちろん吉村先生にお住まいいただきましたが, 宇治キャンパスへの出張で通るたびにその電話を思い出したものです。 大学院での私たちの研究テーマはいずれもシロアリに関するものでしたが, 私が物理的な刺激に対するシロアリの行動的反応を観察するという大雑把な実験を行っていたのに対し, シロアリ腸内の原生動物の頭数を顕微鏡で種類ごとに数える, という気の遠くなるような細かい実験作業を, 根気強く続けていました。吉村先生の緻密さにはほとほと感心していました。 我々の研究室は, 学生の自主性を尊重していただき, マイペースで研究を進めさせてもらえました。そのため, ともすればスケジュール管理がルーズになり, 私などは深夜までだらだらと実験することがありましたが, 吉村先生は非常に計画的で, 上述の細かい実験作業も夕方にはきっちりと終わらせて帰宅し, ほぼ毎日自炊されていました。ちなみに献立を尋ねると, 野菜の煮物など身体によさそうなものが中心で, なるほどヨシムラらしいと納得したものでした。 当時の宇治キャンパスには, 木材研究所を含めて5つの研究所が入っており, 春から秋にかけては研究所対抗野球リーグ戦の球音が響きます。木材研究所チームは我々防腐防虫実験施設が中心メンバーで, 吉村先生は強肩強打のキャッチャー, 扇の要として活躍しました。私たちが学生の時代は, 優勝にあと一歩届きませんでしたが, 教員として戻られた後, 木材研究所を優勝に導きました。なお, いかなる悪球でも捕球する吉村先生のキャッチング技術は, 学生時代の私とのキャッチボールの賜物だったと自負しております。 1985年大学院修了後, 私たちはそれぞれ民間企業に就職して, 一時期は接点が少なくなりましたが, 吉村先生は90年に古巣の京都大学木材研究所, 私も94年に公設試験研究機関に職を転じ, シロアリと腐朽, ポジションは違いながらも木材保存研究という同じグラウンドでプレーを再開し, もうすぐ30年というところでしたが・・・。 吉村先生と最後に会ったのは, 本年3月12日, 生存圏研究所への出張です。私は, 2005年から生存圏研究所の共同利用施設を利用した曝露実験を実施させていただいており, 今回も実験のための出張でした。午前中の実験がおわり, いつものように吉村先生と学食で昼食を摂った帰り道, おそるおそる体調を尋ねると, 治療の効果で当初の病巣は縮小しているが, その一方で新たに視覚への影響が出始めているとのことで, 病状は一進一退のようでした。午後の実験も終了し帰り支度を整えたとき, 吉村先生はシロアリ飼育棟で実験中でした。 「おーい, ヨシムラ~。終わったからそろそろ戻るわ。」 「おう, クリサキ, もう行くんか。じゃあまた次回な。」 これまで宇治キャンパスへの出張の帰り際に何十回と繰り返してきたこの会話は, これが最後になりました。 帰り際, もう一度窓越しに飼育棟をのぞくと, イエシロアリの頭数を数えている吉村先生の姿が見えました。このシロアリ飼育棟は, 私と吉村先生が修士課程2年間の大半をともに過ごした場所です。シロアリを愛情もって数える姿は, 私にとって最も見慣れた吉村先生の姿です。吉村先生が急逝された5月, 我々富山県職員には県外移動自粛の厳命が出されており, 最後のお別れに参じることができず, 非常に寂しい思いをしました。しかし, 今思い返してみると, 私たちは吉村先生にふさわしい場所で, 最も吉村先生らしい姿でお別れできたような気がします。 吉村先生, これまで本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます。 なお, 居住圏環境共生分野研究室のご厚意でお写真をお借りして, 若かりし日の吉村先生の面影をご紹介させていただきました。研究室の砂川様, 足立様, ありがとうございました。助手時代に足立技官と福井県の貯木場調査時の一枚研究室の皆さんお気に入りの笑顔です。33
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